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2012年11月17日

普久原朝喜小史 其の弐 ビセカツコラム04

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※上写真:普久原朝喜氏の貴重なノート(取材協力:普久原恒勇氏)

連載:バックステージから
見た沖縄音楽の歴史

普久原朝喜小史 其の弐
沖縄民謡を理解するには、近代琉球民謡の祖、普久原朝喜(普久原恒勇氏の父)氏を知らなければならない。これから数回にわたり、普久原朝喜氏の小史を掲載する。其の弐

1927年(昭和2年)、
暗い歴史の入り口でもあった

芥川龍之介が「何か僕の将来に対するただぼんやりとした不安である」という「或旧友へ送る手記」を残して自殺したのも昭和2年7月である。大正と昭和の谷間で「新感覚派」(横光利一、川端康成)の登場がありプロレタリア文学運動がおこり、中野重治、林房雄、等の「日本プロレタリア文学運動」が組織され、機多の「無産者」「前衛」運動がはじまり、そして弾圧されていく。
軍靴の音が高々と響き出す暗い歴史の入り口の時代であった。

蓄音機の生みの親
トーマス・エジソンを崇拝

朝喜は、あの発明王「エジソン」の肖像画を床の間に飾り、「この人は大変エライ人であるからして、朝夕、必ず手を合わせて拝むように」と口すっぱくして家人にいいつけたという。それは、あの太平洋戦争の敵国人に対する異常なまでの、全国民ヒステリー時代にも続いたという。
家人はヒヤヒヤのしどうしだった。

これには、後日談がある。
胡屋の家(これは朝喜がモーカッテ作った、親、朝儀の家)のトートーメーと並んでエジソンの写真があったので、米軍は付近一帯の家は取り壊したが「普久原家」だけはひとつぽつんと壊されず残っていたという。
これで講和前補償をもらいそこねたとか。
ちなみに、トーマス・アルバ・エジソンの残した「ひとの驚くような発明はたやすいが、それに商業的な価値を与えることは、きわめて難しい」という言葉がある。朝喜はその意味をわかっていたのではないか……。

1877年、7月にエジソンが彼の蓄音器第1号に向かって「ハロー」と大声で叫んでから、48年目に丸福レコードは設立された。なお、昭和2年という年は日本コロムビア、ポリドール、ビクター等、現在でもビックなメジャーが設立された年である。

歌手、プロデューサー、営業、そして社長。ひとり四役
その頃、たくさんあった沖縄民謡レーベルが今次大戦前でほとんど消えてなくなった中で、ひとり朝喜の丸福レコードのみは戦後も営々と続けられ、次代へと弾き継がれ生き残っている事実。「琉球民謡に対する、並々ならぬ愛情と情熱」もさることながら、自分の仕事に対する責任感とガンバリ精神! そして何よりもその才能が、朝喜にレコード制作をさせ続けた理由だと思う。そして沢山の唄が生まれた。
朝喜は作ったレコードを自転車に積んで売りまくった。
歌手であり、プロデューサーであり、営業マンであり、社長でもあった。一日が何時間あっても足りないくらい、働きに働いた。
儲けたお金で父親の借金を払い、上の姉をのぞいて兄弟みんな一人づつ大阪に呼び寄せた。そして親には、家を作ってやったことは前述の通りである。

LPレコード「朝喜・京子の世界」より
普久原朝喜 小史 其の参に続く


備瀬 善勝 PROFILE
多数の民謡音源の制作に携わる。百沖実行委員会の委員長。沖縄市でキャンパス・レコードを経営。作詞家としても活動しており、普久原恒勇、知名定男らに詞の提供もしている。
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沖縄民謡史を語る 備瀬 善勝 INTERVIEW ARCHIVES 01


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