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2012年11月27日

普久原朝喜小史 其の参 ビセカツコラム05

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上写真:普久原朝喜氏の貴重なノート(取材協力:普久原恒勇氏)

連載:バックステージから
見た沖縄音楽の歴史

普久原朝喜小史 其の参
LPレコード「朝喜・京子の世界」より

1930年(昭和5年)〜
朝喜の強みは新しい工夫。

昭和5年前後の、琉球民謡のレコードのレーベルといえば、ツルレコード(盛光堂)、トンボレコード(自声堂)ヤマキレコード(宜保)。その他、メジャーのコロムビアも琉球民謡レコードを沢山発売していた。
昭和4年寿屋からサントリーウイスキーが発売される。
朝喜は酒に飲まれる人を嫌う。本人はまったくの下戸だった。
昭和6年(1931年)満州事変勃発。朝喜の丸福レコードはいよいよ繁盛して南米はおろかアメリカ本国、南洋諸島と商圏を拡げていった。この年、軍人節「入営出船の港」発売。
朝喜は、ヒワイな歌をうたうといって警察にしょっ引かれたりした。沖縄口を直訳すると「ハンタ原」なんか当時としては大変なことになるだろう。
昭和6年に古賀政男は「酒は涙か溜息か」を作曲している。西条八十作詞の「侍ニッポン」も同年。
1年生の国語の国定教科書は「ハナ、ハト、マメ、マス」から始まる「国語読本」である。
琉球民謡のレコード業界が活気づくと、歌手の引き抜きが盛んに行われた。朝喜には他社にない強みがありました。それは何かというと「常に新しい工夫をする」ということ。丸福レコードには渡慶次憲行という本格的にバイオリンを勉強した人がいる。当時の一流製鉄会社に務めていて今でいうエリートなんだが、この人が朝喜と手を組んでバイプレーヤーとして協力してくれた。
それで朝喜の民謡にはバイオリンからマンドリン、大正琴、はてはトランペットなど様々な楽器を取り入れることができた。劇物になると、シューマンのトロイメライを憲行先生は吹込んである。  
当時、夫人の京子さんはツルマルレコードに在籍していた。「大阪の丸福レコードから出すレコードは非常に人気がある。それは何故かというと、いろんな楽器が使われているからだ」というので、ツルマルレコードのスタッフは奥武山に専属歌手をみんな集めて蓄音器を廻し、この楽器が何であるかと、青空で会議を開いたとのことです。
そして赤嶺京子は丸福レコードに移籍して、天下にその美声を轟かし当時のファンを魅了した。のちには普久原京子になった。

昭和12年(1937年)、支那事変勃発。それが日本を、あの太平洋戦争へ引きづり込むことになる。
朝喜は、廬溝事件のニュースを聞いて「無情の唄」といううたを作った。

あきよ思里や
知らん他島に
暮らさん暮らし
浮世!無情ならむん

「この浮世無情ならむん」とくり返し歌われている曲に朝喜の世相を見る、庶民の側の目がある。「たばこやの娘」、「裏町人生」、「人生劇場」、「妻恋道中」、「すみだ川」、「別れのブルース」等、今も歌いつがれている名曲が沢山うまれた。
勝ってくるぞと勇ましく、誓って国を出たからは……と歌われる「露営の歌」が作られたのもこの年である。


備瀬 善勝 PROFILE
多数の民謡音源の制作に携わる。百沖実行委員会の委員長。沖縄市でキャンパス・レコードを経営。作詞家としても活動しており、普久原恒勇、知名定男らに詞の提供もしている。


沖縄民謡史を語る 備瀬 善勝 INTERVIEW ARCHIVES 02


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