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2013年3月14日

普久原朝喜小史 其の四 ビセカツコラム06

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上写真:普久原朝喜氏の貴重なノート(取材協力:普久原恒勇氏)

連載:バックステージから見た沖縄音楽の歴史

普久原朝喜小史 其の肆
LPレコード「朝喜・京子の世界」より

1945年(昭和20年)〜。朝喜が残した、戦後沖縄の歌。
さて、ここで丸福レコードにかかわったアーチストをあげてみよう。前述した渡慶次憲行氏、才人でバイオリンはおろか、大正琴や太鼓も演った。戦前の丸福レコードには、バイプレーヤーとして必ず参加した。そして「ナークニー」の名人、宮城輝忠氏。往年「辻」で輝忠が歌い出すと、女郎がでてきて巡査が出動したという程の実力者だ。役者からは多喜良朝成氏と多喜良カナ。申すまでもなく沖縄演芸界の大スターである。「南洋小唄」を作った比嘉順氏、伊集亀千代氏。カチャーシーの囃子をさせたらこの人より秀れた人無し! と言われたほど。「憶病節」(ヌンヌクソイソイ)という名盤があり復刻版も制作されました。

沖縄演芸界からは大宜見小太郎氏も戦前、丸福レコードに参加している。役者では他にミンタマーの三津田明氏、古典は仲泊兼浦氏。首里あたりの古老には兼浦以外古典じゃないとガンとしてひかないファンが大勢いました。国吉新能氏の娘さんは、現在民謡の歌い手の国吉スミ子さん。そして、トーガレーの名唄でおなじみ仲間良兼氏、今もなお多くのファンから偲ばれている知名定繁氏等。

日本は戦時一色になり、そして敗戦を迎えることになる。話は一転するが、朝喜の「無情の唄」は、戦後、屋嘉の収容所の中で、金城守堅がPW「無情(節)」の詞をつけて歌われ、幻の名曲といわれた。現在はカンカラー三弦の、あの一種独特の無情感をただよわせて、「金城実」に歌い継がれている。

そして、昭和20年(1945年)敗戦。
戦争は終わったが沖縄はアメリカ世になってしまった。あの不安、あの焦燥感。時代を歌で語ってもらうと……。朝喜の「懐かしき故郷」。歌詞をぜひ見ていただきたい。

時代を表現する「うた」がそこにある。朝喜は時代の証人である。この歌は、関西の沖縄県人の集いで発表された。全員、涙、また涙。しばらくはうちとぅるばって(呆然として)拍手すらなかったという。戦後いち早く丸福レコードを再開した。朝喜は、海外にいる同胞に商品としてのレコードを送ることができなかったので、南米、ハワイあたりには原盤を送り、かの地でプレスして県人はその歌を聞いて、ふるさとを思い、励みにしたという。このことはもっと評価されなければいけない。

戦争は終わったが沖縄は米国の統治下にあった。
昭和26年11月、沖縄=神戸間に「黒潮丸」が戦後初就航。
朝喜は沖縄の匂いを香ぎにわざわざ神戸まで「黒潮丸」と人間を見に行った。これで沖縄にも行ける!

御万人とぅ共に くぬ船に乗やい
懐かしぬ港 出じてぃ行ちゅん
サー那覇とぅ 大和ぬ通い船よ

この歌は、戦後民謡レコード第1号の大ヒット曲となる。
沖縄のプレーヤーとジュークボックスの保有台数以上に売れたという、
今は考えられないほどのヒット曲である。朝喜が大阪に来た頃は、
「琉球人、朝鮮人お断り」の時代。
「うた」も押し入れの中で唄うという時代であった。
そんな時代から敗戦後の琉球芸能の全盛時代を導きだした、
朝喜の功績はいうまでもなく偉大である。

我々後輩はこの功績を未来に伝え、手本としたい。


備瀬 善勝 PROFILE
多数の民謡音源の制作に携わる。百沖実行委員会の委員長。沖縄市でキャンパス・レコードを経営。作詞家としても活動しており、普久原恒勇、知名定男らに詞の提供もしている。


沖縄民謡史を語る 備瀬 善勝 INTERVIEW ARCHIVES 03


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