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2012年9月5日

普久原朝喜小史 其の壱 ビセカツコラム03

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連載:バックステージから
見た沖縄音楽の歴史

普久原朝喜小史 其の壱
沖縄民謡を理解するには、近代琉球民謡の祖、普久原朝喜(普久原恒勇氏の父)氏を知らなければならない。これから数回にわたり、普久原朝喜氏の小史を掲載する。

明治36年(1903年)12月30日、普久原朝喜は越来村(現沖縄市)照屋に生まれる。父、朝義。母カメ。
男4人、女5人の上から2番目の長男。大正12年関東大震災の年に、大阪に出稼ぎに出て、その頃の若者達がそうであったように紡績工場に勤める。
21歳の時である。その頃、添田唖蝉坊は仙台のくず屋に部屋を借り街頭で唄ったり、後には「くず拾い」もやったという。
そんな時代―。
朝喜は幼少の頃から、ジンブナ―で働き者だった。沖縄にいた時は馬車持ちゃーをして各地をうたい歩いた。毛遊びー頭としても持ち前の美貌で相当のものだったと推察される。カチャーシー競争で連続切れ目なく3時間も唄い、三弦を弾き続けたことがあり、かなり名を売っていた。

大正14年(1925年)大阪の水にも慣れた。
そんな時にツバメレーベル(1919年大阪に創立した日本東蓄音器株式会社)から吹き込みの話しがあり、「ハンタ原」と「宮古ンニー小」を初吹込み(この2曲は以後も丸福レコードで何回となく録音している)関東大震災を境にして、電気吹込みが増えてはいたが、朝喜が活動を開始する頃の大阪はまだラッパ吹込みであった。

ハンタ原をとてぃ
吹ち下す風に
いやい待たちゃしが
届ちぇ居たみ

毛遊びうたの「アガリカター小」を朝喜が全く新しく組み立てた曲。時代を超えて古さを感じさせない名唱である。ここで記録にとどめておきたいことは、「ハンタ原」における三絃弾いちゃーに多少の影響を与えた、カキバンチ(連弾奏法)。朝喜以前には、沖縄三絃にはなかった奏法で、朝喜の発明であり、以後の沖縄民謡界に大きな影響を与えた。
朝喜の時代感覚は本能的なものを感じ実に素晴らしい。このことはおいおいわかると思う。

大正14年3月22日、日本で初めてラジオ放送が行われる。
出力220ワット。

中小企業の倒産が相次ぎ、金融恐慌の嵐が大商社の鈴木商店すら倒産させる時代に、時代の最先端を行く「喫茶店」の経営を始める。曰く「モーカッタ」とのこと。昭和2年(1927年)丸福レコード発足。昭和元年は1週間しかなかったから、丸福レコードの出発は「昭和と共に」ということになる。

LPレコード「朝喜・京子の世界」より
ー普久原朝喜 小史 其の弐に続くー

備瀬 善勝 PROFILE
多数の民謡音源の制作に携わる。百沖実行委員会の委員長。沖縄市でキャンパス・レコードを経営。作詞家としても活動しており、普久原恒勇、知名定男らに詞の提供もしている。


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