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2014年9月14日

沖縄の歴史と音楽「戦争の悲惨さを歌い継ぐ」 ビセカツ連載コラム12 沖縄音楽旅行Vo.12

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ビセカツ連載コラム12:沖縄音楽かたやびら 「戦争の悲惨さを歌い継ぐ」

「艦砲ぬ喰えぬくさー」に込められた沖縄の人の想い
1940年(昭和15年)10月国勢調査で、沖縄県の人口は57万4579人だった。太平洋戦争で日本国唯一地上戦の戦場となった沖縄県の人的損害は14万人。実に県民の5人にひとり強が戦争で死んだことになる。

「艦砲ぬ喰えぬくさー」
我抜島喰ァたる あぬ戦さ
我島喰ァたる あぬカンポー
生まり変てぃん 忘らりゅみ
たーがあぬじゃま 
しー出じゃちゃら

恨でん悔でん あきじゃらん
子孫末代 遺言うさな
うんじゅん我んにん 
いやーん我にん
カンポーぬ 喰ェーぬくさー

上記は、「艦砲ぬ喰えぬくさー」という歌の5番の歌詞だ。水平線が見えなくなるほど沢山の軍艦に取り囲まれた沖縄島、鉄の暴風と表現された米軍の軍艦から発射された艦砲射撃からも運良く生き残った人々という意味の歌のタイトルである。
この歌の作者は、「でいご娘」の父親であり文字道理産みの親でもある比嘉恒敏。彼は太平洋戦争で妻子を失い、戦後再婚して娘達を歌手として育て1964年、「でいご娘」を結成した。戦争の悲惨な体験を人々がやっと静かに語り出した1971年ごろ作ったのが「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」である。しかし、1973年、恒敏と妻の乗った車に、飲酒運転の米兵が突っ込み、ふたりとも他界する。事故の後、「でいご娘」は活動を停止していたが、父の歌を残そうと1975年、マルフクレコードからEPレコードとして発売された。2013年、恒敏の出身地、沖読谷村楚辺区に歌碑が建立された。現在でも戦争を経験した世代の人々に哀唱されている歌である。
軍人よりも非戦関員の(一般市民)住民の犠牲者を多く出した沖縄戦のことを、ニューヨークタイムスの従軍記者ボールドウィンは「醜さの極致」と書き残している。

2000年(平成12年)7月21日から23日まで日本の沖縄県名護市の万国津梁館で第26回主要国首脳会議が開催された(通称 九州・沖縄サミット)。20世紀最後のサミットであり、日本初の地方開催のサミットでもある。この会議で沖縄が生んだ、スーパーアイドル歌手、安室奈美恵の歌う、サミットのイメージソング「NEVEREND」(作詞作曲プロデュ―ス・小室哲哉)は、大変よく出来た曲だ。
「忘れられない風が吹く」。繰り返してはいけない凄惨な悲劇である。

バックステージから見た沖縄音楽の歴史
沖縄音楽は、歴史とともに変化してきた。琉球王朝時代から戦後の沖縄音楽までを解説。
邦楽ジャーナル(2000年7月〜出版)への寄稿文を基に
沖縄民謡界の重鎮ビセカツ氏が再監修し今に伝える連載コラム。


備瀬 善勝 PROFILE
多数の民謡音源の制作に携わる。百沖実行委員会の委員長。沖縄市でキャンパス・レコードを経営。作詞家としても活動しており、普久原恒勇、知名定男らに詞の提供もしている。


沖縄民謡史を語る 備瀬 善勝 INTERVIEW ARCHIVES 01


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