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2013年12月12日

沖縄の歴史と音楽 其の参 ビセカツコラム09

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連載:沖縄音楽かたやびら バックステージから見た沖縄音楽の歴史

沖縄の歴史と音楽 其の参
沖縄音楽は、歴史とともに変化してきた。琉球王朝時代から戦後の沖縄音楽までを解説。
邦楽ジャーナル(2000年7月出版)への寄稿文を基に
沖縄民謡界の重鎮ビセカツ氏が再監修し今に伝える連載コラム。

宮廷芸能から大衆芸能へ。沖縄芝居の誕生
沖縄で本建築の芝居小屋が出来たのは明治二十四年(1891年)頃、最後の冠船踊り奉行であった小禄家が私財を投じて建物を作り、沖縄の伝統芸能を守ることと、王朝時代に宮廷芸能にたずさわった、今は下野した元部下の役者たちの救済のためでもあった。
これをきっかけに、芝居小屋が本建設築化し、劇団の競争が激化し、人気役者の引き抜きや、劇団の離合集散がくり返された。

利点もあった。古い芝居や舞踊だけでは客に飽きられるので、新しい芝居や新作の舞踊も作られるようになり、現在も準古典として踊られる、雑舞踊の名作が生まれた。『かなよー』『谷茶前』『浜千鳥』『むんじゅる』『花風』などである。
上間正品という人は、演劇改良を叫び、東京その他で見聞きした歌舞伎や新派を沖縄に持ち込んだりもした。壮士芝居も明治の沖縄芝居に多大の影響を与えた。シェイクスピア劇や「忠臣蔵」までも沖縄口で演じたのだった。

明治も終りの頃になると、組踊や歌舞伎、新派を巧みにアレンジした沖縄独特の「歌劇」を創作し、沖縄芝居の全盛時代が訪れるのである。大和芝居が根付かなかったのはやはり言葉の問題が大きかったのではないかと思われる。

戦後初の沖縄民謡は、捕虜収容所で生まれた
昭和二十年(1945)沖縄本島中部の西海岸に上陸した米軍は、圧倒的物量で日本軍を攻め、同年六月二十三日の南部の摩文仁の岳で牛島中将の自決によって、日本軍の組識的地上戦は終了する。
日本軍の戦没者九万四千百三十六人。住民十四万人、米軍側戦没一万二千五二十人である。

敗戦直後の九月に屋嘉の捕虜収容所で、戦後初の沖縄民謡が生まれた。『屋嘉節』(PM無情)という歌である。収容所演芸長金城守堅の詞を沖縄人捕虜隊長の山田有昴と名護地区警察署長で収容所相談役の新城長保が補作した。曲は昔から芝居などでよく使われていた『山内節』(山内盛彬作曲)である。伴奏は野戦用寝台の木の枠に缶詰の空き缶で出来た三線である。

現在は作詞作曲とも新しく作られているが、その頃までは、沖縄民謡の新しい歌の多くは、昔からある曲に作詞をのせて歌われ、言葉のアクセントで曲が変化していくのがほとんどであった。


備瀬 善勝 PROFILE
多数の民謡音源の制作に携わる。百沖実行委員会の委員長。沖縄市でキャンパス・レコードを経営。作詞家としても活動しており、普久原恒勇、知名定男らに詞の提供もしている。


沖縄民謡史を語る 備瀬 善勝 INTERVIEW ARCHIVES 01


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