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2013年9月26日

沖縄の歴史と音楽 其の弐 ビセカツコラム08

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連載:沖縄音楽かたやびら バックステージから見た沖縄音楽の歴史

沖縄の歴史と音楽 其の弐
沖縄音楽は、歴史とともに変化してきた。琉球王朝時代から戦後の沖縄音楽までを解説。
邦楽ジャーナル(2000年7月出版)への寄稿文を基に
沖縄民謡界の重鎮ビセカツ氏が再監修し今に伝える連載コラム。

組踊の源初、玉城朝薫
玉城朝薫(1684~1734年)、劇聖にして、あらゆる分野の行政官としても有能なエリート官僚であった。
彼もまた慶賀使のお供として二十歳の時に初めて鹿児島に行って以来、十年間に五回も薩摩に渡航、さらに江戸に上がること二回等、大和芸能や教養を深く身につけた人物だったのだ。
現在国の重要無形文化財に指定されている古典芸能「組踊」の創始者である。
能楽・狂言や歌舞伎にも造詣が深く、組踊はそれらの要素と琉球古典音楽によって組み立てられた、当時としては革新的な芸能であった。
享保四年(1719年)、第十七回の冊封使招宴の重陽の宴の際に上演されたのが、琉球のおける「劇」(組踊)のはじまりである。
琉球舞踊の女踊りの創造者であり、今日の沖縄芝居や琉球舞踊の源初は、玉城朝薫である。

廃藩置県以降の沖縄芸能
日本国が新体制へ大きく変わろうとする激動の徳川末期、琉球王国も仏国や米国船の来航、支配国薩摩のお家の事情で騒々しい時代になっていた。そんな慶応二年(1866年)、最後の御冠船となる中国の冊封使を迎えた。恒例どおり盛大かつ無事に行われたとのことである(世に寅の御冠船)。
1869年、徳川幕府藩籍奉還が行われ、1871年、琉球王国は薩摩の手を離れ、政府直轄の琉球藩となり、全国に遅れること八年、明治十二年(1879年)に沖縄県が誕生する。そして琉球王府の役人千七百余名が役職と地位を失う。当然芸能で王府に仕えていたエリートたちも身分を失うのである。
「廃藩ぬ武士」といわれ、なれない百姓仕事や馬車曳きなどの身過ぎ世過ぎが人々の涙をさそい、そのプライドの高さ故に、笑いの種になった。明治御一新の能役者にも通じる、時代の流れの悲劇であろう。
芸は身を助く……ほどの不幸せ、御冠船踊りをひそかに料亭や民家などで見せることを生業とする者が現れる。若手の踊り手は美男が多く、異性問題でトラブルが多発し、明治十五年(1882年)には「遊劇興業取締令」が出された。無断興行が取り締まれるようになり、那覇市の新開地あたりに芝居小屋が出来て興行が行われるようになった。
マカジイ(かます)で囲っただけの簡単な小屋があったが庶民が宮廷芸能を見る機会が与えられたのである。これまで門付芸人はいても、劇場はなく、芸術性の高い芸を庶民が観ることは、不可能だったのだ。
沖縄において庶民の観劇の習慣は明治維新以後のことである。


備瀬 善勝 PROFILE
多数の民謡音源の制作に携わる。百沖実行委員会の委員長。沖縄市でキャンパス・レコードを経営。作詞家としても活動しており、普久原恒勇、知名定男らに詞の提供もしている。


沖縄民謡史を語る 備瀬 善勝 INTERVIEW ARCHIVES 05


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