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2013年6月22日

沖縄の歴史と音楽 其の壱 ビセカツコラム07

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連載:沖縄音楽かたやびら バックステージから見た沖縄音楽の歴史

沖縄の歴史と音楽 其の壱
沖縄音楽は、歴史とともに変化してきた。琉球王朝時代から戦後の沖縄音楽までを開設。
邦楽ジャーナル(2000年7月出版)への寄稿文を基に
沖縄民謡界の重鎮ビセカツ氏が再監修し今に伝える連載コラム。

琉球王朝時代の三線音楽の流れ
沖縄の人は、三線(または三弦と表記)をとても大切にする。太平洋戦争の戦場となった沖縄だが、御先祖の位牌と三線だけは肌身離さず、戦場を逃げまわった人が多い。
現在も琉球王朝時代から、代々家々に伝わる有名な名器も沢山保存されている。琉球三線の名器のことを開鐘(けいじょう)という。
沖縄の三線が渡って来たのは、六百余年前の1392年。中国福建地方の閔人三十六姓が察渡王時代に琉球に帰化したときに、明国から持ち込んで来たものといわれている。なお、日本本土へ三味線が伝来したのは、永禄年間(1558~70年)とされている。

歌と三味線の 
むかし初や犬子音東の 
神の御作

と歌われる伝説の琉球音楽の始祖「赤犬子(あかいんこ)」の時代に中国三線に改良がなされた。歌は、「おもろそうし」(琉球の万葉集といわれる古謡集)のトウネー(唱え)や、打楽器だけの「ウムイ」などの神歌に、三線などの弦楽器が加わり、芸術性の高い宮廷音楽へと進化していく。

中国との国交で栄えた琉球音楽
琉球王国は、中国への入貢とアジア貿易で栄えた。新しい国王が王位につく時は、中国から冠を授けに使者が来た。それを「冊封使」という(冊封使が乗って来る船は冠船)。清朝以来、数百人の護衛兵を従えておよそ半年も琉球に滞在した。
その歓迎のために演じられた国劇を「御冠船踊」という(1404年第1回から1866年まで、22回続いた)。
慶長十四(1609)年、島津氏が武力で琉球を支配したが、中国と琉球の関係は明治維新まで続く。薩摩は海外貿易の拠点として琉球王国を支配し、琉球は、中国の鷹揚さに利を得て、明治八(1875)年まで、266年間も薩摩と中国の両属が続いた。

金城厚(沖縄県立芸大)先生は、琉球音楽の性格を著書「ヤマトンチュのための沖縄音楽入門」(琉球音楽之友社刊)の中で次のように説明している。
①大和芸能に秀でた者が、宮廷の音楽、芸能を発展させた。
②宮廷には「音楽家」はおらず、すべて官僚芸術家であった。
③器楽的技術よりも精神性を追求する方向に向かった。

琉球の歌三線の楽祖は、慶長の役(島津の琉球入り)から14年後に生まれた。湛水親方幸地賢忠(1623~83年)である。彼は有能な官吏であり、15歳の時に薩摩へ初旅以来4回も薩摩のぼりをしている。1672年に初代の踊奉行を拝命する。
琉球音楽の楽譜は湛水親方によって創設され、以来湛水を始祖として、沢岻良沢、新里朝住、照喜納聞覚、屋嘉比朝寄、豊原朝典、知念績高、野村安趙、安冨祖正元へと受け継がれて行くのが、琉球王朝時代の三線音楽の流れである。


備瀬 善勝 PROFILE
多数の民謡音源の制作に携わる。百沖実行委員会の委員長。沖縄市でキャンパス・レコードを経営。作詞家としても活動しており、普久原恒勇、知名定男らに詞の提供もしている。


沖縄民謡史を語る 備瀬 善勝 INTERVIEW ARCHIVES 04


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