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2011年10月12日

<沖縄音楽旅行 Vol.1>コラム:沖縄の歌のオジィの知恵袋「バックステージから見た沖縄音楽の歴史」

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【第1回】
沖縄音楽歴史を伝承。戦前から戦後復興

談:備瀬 善勝

<沖縄民謡の流れ、新民謡の誕生>
沖縄の伝統的な音楽を大きく分けると、「古典」(宮廷音楽)と「民謡」ですが、近頃は「島うた」という呼称で、沖縄ポップスまでも民謡の変形として認知されています。
「うたと三線」「和楽器」中心の戦前には、8・8・8・6(さんぱちろく)の30文字で作った「琉歌」を、昔から歌い継がれてきたメロディに乗せて歌うのが当たり前で、曲までも新しくすると「ユクシ唄」(ユクシ=嘘)と言われました。
そんな時代に普久原朝喜という人は、大阪で「丸福レコード」という蓄音機盤(SPレコード)の制作・販売会社を昭和初年に立ち上げ、曲まで新しい民謡を発表しました。ついたあだ名が「チクオンキフクバル」。大好評だったらしく、沖縄出身移民をあて込んで、南米・ハワイ、南洋諸島に太平洋戦争が勃発するまで輸出されていました。
朝喜を筆頭に、知名定繁、山内盛彬などが世に送り出した、新しい沖縄民謡の影響を受けて、戦後昭和30年代以降は新民謡が一大民謡ブームの原動力となり「沖縄県では1日に1曲は新曲が生まれている」といわれるほどの現状を作り出していきました。
それを考えると、昭和10年代の戦時中は、沖縄県内でウチナーグチで歌う民謡は禁止され、またウチナーグチを使うとスパイ呼ばわりされ、兵隊に銃殺される人もいた、そんな時代があったことは現在では想像出来ません。
沖縄民謡の歴史を振り返ってみると、毛遊び(注1)の歌垣から生まれて歌い継がれてきたうたや、各地で流行していたうたをエイサーに取り入れ、それが歌い継がれて今に残っているのもあり、それにもまして、明治以降沖縄芝居の人たちが、琉球列島奄美から宮古・八重山まで旅興行の折、集めてきた地方のうたを歌劇に取り入れて、新しい芝居を作り、その中のうたが芝居を飛び出して民謡として人々に歌われて、現在に歌い継がれ、今に至っています。
民謡はその人の個性で歌うもので、自由に変化して、多様化しているから面白いのです。

<戦後の厳しい状況のなか、沖縄芸能に光が見える>
太平洋戦争が終わってからの女性歌手というのは、繁華街で三線弾きとして採用されていた人たちです。糸数カメさんとかがそう。男性は戦争から無事帰還した小浜守栄さん、山内昌徳さんらが沖縄市に集まって民謡の復興をはじめました。
戦後、沖縄は焼け野原で何もなかった。でも、そんななか、昭和20年の12月25日に石川の城前小学校グラウンドで「クリスマス祝賀演劇大会」が行われて、戦後の沖縄芸能ののろしをあげたんです。
身近にあるものをかき集めて衣装や小道具を作ったり、レンガを砕いた粉を頬紅にして化粧品として代用したり……、知恵を絞りに絞って沖縄伝統芸能の復活に取り組んだ。沖縄復興は芸能からはじまったんです。そうして、芸能関係者を3つのグループに分けた、松竹梅という劇団を作り、沖縄全島を巡業した。ここが芸能の出発点でしょうね。

<時代の流れとリンクしてきた沖縄の音楽事情>
そうこうしてるうちに、大阪など県外に出て行った三線弾きが徐々に沖縄に戻ってきました。戦後、民謡の復興の中心になった人は、ほとんど県外から帰ってきた人たちでしたね。その頃は、まだ産業は復興しておらず、仕事がありませんでした。
でも、中部には基地の仕事があったんです。だから、三線弾きたちもこぞって中部にやってきた。
基地内でさまざまな仕事をしながら小浜守栄さんが中心となって、民謡を復興させるために動いたんです。コザには嘉手苅林昌さんら個性的な人がいました。
そのうち、普久原恒勇さんが大阪から帰ってきて、コザでマルフクレコードを復活させた。
1960年には第一民謡ブームが起こったときはすごかったんですよ。
沖縄の音楽の歴史って島唄だけじゃなくて、朝鮮戦争のときはジャズ、ベトナム戦争のときはロック……って、アメリカと同じように、基地のある沖縄でもそれらの音楽が流行っていたんです。なぜかというと、基地の中で流行っている曲を民間のナイトクラブに持ち出したから。そのお店のお客さんの多くは、県外から仕事で沖縄に来た人たちでした。だから、12時を過ぎたらみんな帰るわけです。でも、ウチナーンチュはこれからでしょ(笑)。 そこで、どうにか営業時間をうまく活かせないかと考えた経営者が第二部で民謡ショウをはじめたんです。これが民謡クラブの出発点。
沖縄の音楽は、世の中の動きとリンクしているんです。世界の音楽の主流、歴史、政治と深く関わり合いながら、成長を遂げていくのです。
(第二回につづく)

(注1)…かつて沖縄で広く行われていた慣習。夕刻から深夜にかけて、若い男女が野原や海辺に集って飲食をともにし、歌舞を中心に交流した場。民謡や楽器演奏技術、舞踊、民話など、伝統文化の伝承の場としての機能も果たしていた。

【PROFILE】
備瀬 善勝
Yoshikatsu Bise
多数の民謡音源の制作に携わる。百沖実行委員会の委員長を務めている。沖縄市でキャンパス・レコードを経営。作詞家としても活動しており、普久原恒勇、知名定男、松田一利らに詩の提供もしている。
▶ 備瀬善勝氏の沖縄音楽史をアーカイブしたインタビュー動画を沖縄LOVEwebで配信します!

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