2022年6月16日
沖縄 本土復帰50年特別企画 喜納昌吉 INTERVIEW
喜納昌吉がうたう沖縄
ウチナー・ポップスはこうして誕生した
高校野球の応援歌としても知られる「ハイサイおじさん」や、世界各国でカバーされ大ヒットを記録した「花〜すべての人の心に花を〜」で、世界中にウチナー・ポップスを広めた喜納昌吉。1967年のチャンプルーズ結成から55年、音楽活動の足跡を振り返るとともに、本土復帰50年の節目を迎えた沖縄への思いを聞いた。音楽家、喜納昌吉の魅力にフォーカスした「本土復帰50年特別企画 喜納昌吉 インタビュー」、スペシャル仕立てでお届け!!
Interview & Text:幸田悟
──まずは、音楽家 喜納昌吉のルーツに迫ってみたいと思います。沖縄民謡界を代表する唄者、喜納昌永(1920年 – 2009年)氏の4男(11人兄弟)として誕生しました。喜納昌永氏は、ステージ芸能としての沖縄民謡を確立したひとりとして、沖縄民謡の発展に多大なる功績を残されてます。音源としても、500曲以上残っているって、すごい数ですね
喜納昌吉 あの当時のレコーディングは、一発録りなんだよね。心の内側に歌がないと収録ができない。父は、11歳のころから村行事の地謡(伴奏者)をやっていたらしいんだよ。天才少年だったのかな。琉球古典音楽の祖となる湛水流を学び、野村流をやってね。しかし、次第にレコード店で流れる民謡や普久原朝喜(普久原恒勇の父)さんに憧れて、民謡に転向していったのです。戦後の話になるけれども、1950年代の沖縄では、ラジオ局が開局して「民謡のど自慢大会」などもの番組も盛んに放送されるようになり、父は、それに出演して、鐘が3回鳴る「三点賞(優勝)」を常に取って、人気を得ていくわけだよね。みんなそれに続けと、嘉手苅林昌や山内昌徳などの民謡スターが誕生していきました。そして、父は1954年に「マルフク民謡研究所」を作ったんだよね。するとそこに、嘉手苅林昌や登川誠仁など、そうそうたる人たちも集まって猛練習していました。僕はまだ子どもだったから、民謡研究所の角に猫を抱いて座っていて、みんなが競い合って民謡を勉強している姿をずっと見ていました。言わば、音楽のシャワーのなかにいるわけね。みんなが帰った後の練習場には、熱気とその存在に満たされた静寂があるわけね。そのなかで、三線の弦をはじくと、静寂のなかに音が溶けていくんです。その音の余韻がたまらなく大好きでね……。これが私の音の源泉になっている気がします。
「ハイサイおじさん」の誕生秘話
──いまや甲子園の沖縄チームの応援の「神曲」としても、全国に知られる名曲「ハイサイおじさん」、この歌が生まれた背景を教えてください
喜納 近所に住んでいたおじさんとのやりとりを歌にしたわけだけど……。おじさんには、過去に家族の悲しいできごとがあったんだよね。これは、戦争のトラウマが引き起こしてしまった、悲惨な事件……。アメリカ統治下で、生活も不安定。それからおじさんは、サキヌマー(大酒飲み)になっていったんだろうね。この地域からは、村八分になっていて、子どもたちからも追っかけられたりして、からかわれるんだよ。ある日、いつものように、おじさんが子どもたちにからかわれていたら、おじさんも怒ったふりをして石を上の方にポーンと放り投げたんだよ。そしたら、その石がおじさんの頭の上に落ちてきた。それを見ていた僕とおじさんの目が合ったんだよね。おじさんのドジが身近に思えてね、それがキッカケで友達になっちゃうわけね。そのころ僕の父は民謡のスターになっているから、家にはお酒の一合瓶がたくさん並べてある。おじさんは、それをもらいに来るようになるんです。父や母が留守のときを見計らって、私に寄ってきた。おじさんは、いつも酒をもらいにくるときに「ナークニー」を歌ってましたね。そこから、おじさんとの対話が始まっていく。私が13歳のとき、「おじさんの歌を作ってあげようね」と思っちゃうんだよ。そう思った瞬間に歌が湧いてきた。不思議でしょ。今でもその光景は、残っているね。「♫ハイサイおーじさん」っていうフレーズが下から湧いてきてね、「♫ありありわらばー」が上から降りてくるんだよ。あの感覚はまだ残っている。自分で作ったという感覚がない、ある意味、おじさんの存在とのコラボだよね。生命力というのは、そこにあると思っているよ。作るという、感覚ではない。幼いころの練習場の静寂のなかに音が溶けていく感覚からずっと繋がっている。音楽が体の中に充満していったんだろうね。
──父である昌永氏から手ほどきを受けたというわけではなくて、音楽は独学だとうかがいました
喜納 僕の妹たちは、猛烈に父の教育を受けているから民謡の基礎ができているわけだよね。僕はね、ちょっと生意気な子どもだったんですよ。人から習うということを拒んでいたんだよね。ある意味、解放されている。だからギターやマンドリンを触ったり、三線を弾いたりと、いま思えば、自由に楽しんでいたんだよね。
──その環境が喜納昌吉の音楽につながっていくんですね
喜納 だと思いますね。音楽の生命が満ち溢れそして熟成する。それは、ジャンルにとらわれることなく広がっていきましたね。いいものはいいんだという。
──そして1968年、大学生のときにチャンプルーズを結成します
喜納 あのころ学生運動が激しくて……
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【喜納昌吉 PROFILE】
1948年、沖縄県コザ市(現・沖縄市)生まれ。父は沖縄民謡の第一人者、喜納昌永。68年に喜納昌吉&チャンプルーズを結成。72年にはシングル「ハイサイおじさん」をリリース。77年、同曲を含む1stアルバム『喜納昌吉&チャンプルーズ』を発表。80年、名曲「花~すべての人の心に花を~」を収録した2ndアルバム『BLOOD LINE』を発表。沖縄民謡のフレーズをバンド・サウンドの中に溶け込ませた音楽でウチナー・ポップスを世界へと広げました。
備考:喜納昌吉 のライブハウス Live&Bar チャクラ
住所:〒900-0013 沖縄県那覇市牧志1-2-1 花ビル 5階 電話:098-867-8743
喜納昌吉 沖縄ミュージックジャーニーアフタートーク 137
2022年4月7日放送分の収録後のNHK-FM 番組「沖縄ミュージックジャーニー」アフタートークです。今月は、沖縄本土復帰50年スペシャル第二弾として「ハイサイおじさん」、「花~すべての人の心に花を~」など県内はもとより、県外、海外でも広く親しまれている曲を数多く生み出している喜納昌吉さんをゲストにお迎えしました。貴重な楽しいインタビュー動画、是非ご覧ください!!
国境を超えて魂をゆさぶる全11曲を収録
ウチナー・ポップスの源流を体感!!
喜納昌吉&チャンプルーズが全国デビューした歴史的なアルバム『喜納昌吉&チャンプルーズ』、初盤がリリースされたのは、沖縄本土復帰から5年が経過した1977年。1972年に沖縄県内において「ハイサイおじさん」のシングル盤がリリースされるや否やその人気に火がつき大ヒットを記録した。その活躍で県外の音楽プロデューサーの目に留まり、全国版のアルバム『喜納昌吉&チャンプルーズ』をリリースすることになった。本作のレコーディングは喜納昌吉と父母が経営していた民謡クラブ「ミカド」で収録。その音源をレコード会社でマスタリング作業を行い、リリースに至った。県内盤よりもアップテンポで畳み掛けるように演奏した「ハイサイおじさん」、サントリーレッドのCMソングともなった「レッドおじさん」、喜納の代表作のひとつとなっている「東崎」、国境を超えて魂をゆさぶられる琉球ソウルナンバー「島小ソング」など全11曲を収録。ウチナー・ポップスの源流を体感の『喜納昌吉&チャンプルーズ』、沖縄音楽ファンならずとも必聴の一枚。
【喜納昌吉&チャンプルーズ/喜納昌吉&チャンプルーズ】
ARTIST:喜納昌吉&チャンプルーズ
CD TITLE:『喜納昌吉&チャンプルーズ』
RELEASE:1994年6月25日 初盤1977年11月15日リリース
PRICE:1,602円(tax in)
CODE:TKCA-70396
詳細:徳間ジャパンコミュニケーションズ
【『喜納昌吉&チャンプルーズ』収録曲】
01.ハイサイおじさん~オブリガード・ブラジリアン・ミックス 02.うわき節 03.レッドおじさん
04.番長小 05.東崎 06.すくちな者 07.いちむし小ぬユンタク 08.馬者小引んちゃー
09.島小ソング 10.東京讃美歌 11.島小ソングーシングル・バージョン
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