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2014年12月10日

沖縄の歴史と音楽「ジャズバンドの盛衰」 ビセカツ連載コラム13 沖縄音楽旅行Vo.13

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ビセカツ連載コラム13:沖縄音楽かたやびら「ジャズバンドの盛衰」

「命の祝事さびら」と説いた小那覇舞天の功績
「命の祝事さびら」(命のお祝いをしましょう)。
通称ブーテンこと小那覇舞天(本名全孝)は、親兄弟親族を戦争で失い、食うや食わずの人々の所へ三線を持って呼びかけた。「何がお祝いか」と怒る人々に、「戦争で死んだ人の分までしっかり生きなさい」と静かに語った。

若いころ東京浅草のオペレッタに学んだ芸を生かして、人々に生きる勇気を歌と笑いで説いた。偉人にして奇人、敗戦直後の沖縄諮詢委員会(琉球民政府)初代文化部長にして歯科医師。弟子の照屋林助や登川誠仁など引き連れて、島々家々を精力的に巡回し、戦後沖縄芸能の礎を作った人だ。フォーシスターズや乙姫劇団なども育てた。彼の功績を顕彰すべく、復刻CDや伝記の芝居化など、若い人たちを中心に運動が盛り上がっている。

1950年代、興隆を極めた沖縄ジャズ
沖縄で戦後最初に結成されたプロの洋楽団は「南の星楽劇団」という。
昭和22年(1947)12月に旗揚げした。戦時中禁止されていたアメリカの軽音楽や日本の流行歌がメインのレバートリ―だった。団員15名で全琉を興業してまわり、大変人気を博した。世の中が変わりゆく時代の流れを強烈に印象づけた楽団だった。
1940年代から50年代のアメリカのポピュラーミュージックはジャズだった。米軍基地の多い沖縄では、基地内の娯楽施設にジャズバンドの需要が多く、沢山のバンドが生まれた。

朝鮮戦争や1952年の対日講和条約によって沖縄基地は強化され、沖縄は外国となってしまい、日本のミュージシャンも技術導入でパスポートと楽器を持って沖縄へやって来た。
「デューク・ドーシ―」(吉田俊治)、「グラマン・シックス」(仲里長宣)、「タイガ―」(亀田潤一郎)、「キング・バンド」(兼村寛俊)、「コロムビア・バンド」(ミッキー中地)等のバンド名が琉球政府文府文教局の資料として残っている。
アメリカ本国からも、ルイ・アームストロングやライオネル・ハンブトン、レイ・チャールズなどなど蒼々たるミュージシャンたちが、米国国防省の依頼で来島し、沖縄のミュージシャンたちと共演している。当時の沖縄のジャズバンドは国際的にもかなり高い水準にあったといわれている。

60年代後半から70年代にかけて、ベトナム戦争の激化とともにロックミュージックがアメリカの若者のポピュラ―ソングの主流となり、沖縄の基地にも海兵隊の若い兵士が増え、ロックバンドの台頭とともにジャズバンドは哀退し、民間のキャバレーの歌謡曲のバックバンドで楜口をしのぐか、他の職業へ転職していった。

バックステージから見た沖縄音楽の歴史
沖縄音楽は、歴史とともに変化してきた。琉球王朝時代から戦後の沖縄音楽までを解説。
邦楽ジャーナル(2000年7月〜出版)への寄稿文を基に
沖縄民謡界の重鎮ビセカツ氏が再監修し今に伝える連載コラム。

備瀬 善勝 PROFILE
多数の民謡音源の制作に携わる。百沖実行委員会の委員長。沖縄市でキャンパス・レコードを経営。作詞家としても活動しており、普久原恒勇、知名定男らに詞の提供もしている。


沖縄民謡史を語る 備瀬 善勝 INTERVIEW ARCHIVES 01


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